「通り名の復活をめざすプロジェクト」活動状況  
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平成16年武生ルネサンスプロジェクト

「通り名の復活をめざす」






戦災も震災も受けていない武生の市街地には、江戸、明治時代の地図でも十分歩けるほど、昔の道がそのまま残っています。のぼり町通り、大門通り、松原通り、銀座通り、馬場通り、広小路通り、善光寺通り、大正通り、六軒町通り、蛭子通りなど、それぞれの「いわれ」を含めて後世に語り継ぎたいと思います。これは単なる懐古趣味ではなく、これこそが武生のまちの個性であり、もし街中に通り名の表示があれば、場所の特定にも便利だと考えるからです。

同時に、大量生産、大量消費の時代が過ぎた今日、武生にある「繕いや」を探そうということになりました。大門通りで「めがね直します」、六軒町通りで「アクセサリー直します」の小さな表示を見たことがあります。その他時計、箪笥、靴、バック、椅子、洋服、着物、カメラ、自転車、家、掛け物など、「知る人ぞ知る」繕い屋さんを、「通り名」を入れた地図に落とせたらいいですね。情報をお待ちしています。



平成16年2月例会(平成16年2月20日金曜日)@府中町屋倶楽部




橋本儀春さんを中心に、平成の地図に通り名を記入していく作業を行いました。
江戸、明治の地図と現代の地図を比べながらの作業。






武生の通り名調査プロジェクトチーム報告





武生の通り名調査プロジェクトチームその後



山崎さんを中心に着々と活動中です。詳しくは7月の例会の時に伺いましょう。




平成16年7月例会(武生の通り名復活をめざして)報告



2004/7/23 三木 世嗣美
 80歳近くの北村市朗さんが、今回の豪雨被害に遭われた福井市木田町の一人暮らしのご友人の復旧支援に行かれて、泥のついた作業服のまま例会に参加されました。北村さんもお一人暮らしなのに、ご友人の洗濯物まで持ってかえられ、「洗って明日持っていく」と、おっしゃっておられたのには、まことに頭の下がる思いがしました。現在70,80歳の方の他人への思いやりと、エネルギーには本当に感心します。
また今日の例会では、北陸高校2年の内藤龍太君が新しく入会してくださいました。 彼もまた今日被災地で泥上げの手伝いをしてきたとのことでした。
 予定通り7時半から山崎さんの司会で例会は始まりました。宮脇さん、杉浦さんが中心になって話は進められましたが、市史編纂委員長を務めてこられた斉藤さんや、郷土作家の上坂さん、善光寺仏研究者の北村さんが加わって、武生の町名や、通り名などについての実に興味深い話が展開されました。

2004年7月例会の様子。
奥に見えるのが江戸時代(正徳)の地図。
質問1.昭和37年に施行された「住居表示に関する法律」によって,町の区割りが変わり、今の町名になりましたが、そのときの経緯について教えていただけますか?
答え: 昭和30年代以降わが国の経済発展は目覚しく、急激な生活環境の変化によって、従来の町名表示では不都合な面が出てきたようです。複雑で解りにくい町境、町の飛び地、また高層の住宅などでは同じ地番に多くの家があることになり、郵便の配達などに支障をきたすようになって来ました。それで武生市でも昭和48年5月に第1次地区、翌年11月に第2次地区、51年6月に第3次地区、続いて第4次地区と、新住居表示が実施たれました。しかし大きな道路を境にした町内割のやり方は、確かに郵便配達には都合がいいものの、今までの地域の暮らしを無視するもので、町内の祭礼維持、町内会の財産管理などに多くの悪影響を与えました。
反対のデモ行進までも行われたことを記憶しています。
大きな反対にもかかわらず結局強行された住居表示修正ですが、最大公約数的に決まった町名は、文京、南、若竹、あおば、平和、中央、若松などと歴史的意味合いの無いものであったり、蓬莱町、京町、幸町などもともとあった町名を使いながら区域が変わったため、混乱を招いたものもあります。

質問2.新町名の決め方は、行政指導型だったのでしょうか?
答え: いいえ。各地域でアンケートなどをとって、決めたようです。

質問3.「大門通り」というのは本当に門があったのですか?
答え: いや「門」というのは入り口という意味でしょう。帆山の渡しから町へ入ってくる入り口だと思います。江戸末まで深草の金剛院のあたりに釘貫町がありましたが、此処には実際「釘貫門」という門があって、これも町への入り口で門番もいたようです。

質問4.大門通りの道端に「くわんのんみち」と、書かれた石柱がありますが、あれは古いものですか?
答え: いやそんなに古いものではありませんよ。御影石だし、書体も新しいです。
おそらく大正時代に帆山寺の宣伝のために立てたのでしょう。

質問5.善光寺通りというのはなぜですか?
答え: 正覚寺は、南北朝時代北朝方の斯波高経が新善光寺城を築いた場所だからです。
正覚寺の北側には今でも中世の土塁の址が残っていますよ。
それにしても「善光寺通り」という名前は日本中で、武生にしかありません。信濃の善光寺にもないんです。

質問6.蛭子町は以前は「新在家町」といったようですが、新在家というのはなぜですか?
答え: 今の総社前通りは江戸初期には「油在家」といいました。それは総社に灯明料(油代)を献上し、営業権を保証された商人が住んでいたからです。それに対して 新しくできた通りなので「新在家通り」といったのだと思います。

質問7.「六軒町通り」というのはなぜですか?
答え: この通りには6軒しか家がなかったんです。

質問8.吾妻町に昔からある三つの路地について教えてください。
答え: 一つは「般若筋」。道の中ほどに椎の木があり半分しか入れなかったので、「半入筋」が訛って「はんにゃずし」になったそうです。
   二つ目は「中筋」。これは真ん中の辻子。
   三つ目は「桶屋筋」(おけやずし)。昔は桶屋が住んでいたから。
   これの南に「小鳥町」というのがありますが、これは「小殿町」が訛ったものです。
   本多家中の小殿さんが住んでいたそうです。今でも江戸末期の茅葺の家が残ってい ます。

質問9.「馬場通り」は?
答え: この通りは侍屋敷が多く、武士が馬に乗って通ったからです。
    今は広小路通りと言っているところも、昔は「下馬場通り」と、いいました。大正2年の大火以後、広小路通りとなりました。
「大正通り」、「銀座通り」は昭和の初めに完成しています。

質問10.昔から通り名のついている通りの特徴って何かありますか?
答え:商売をやっている家が並んでいたことでしょうかね。今もこの通り名ごとに商店街連盟ができているようですね。



司会のまとめ
  1. 今までに人口に膾炙しているものを、消えないように語り継いでいくよう工夫してみましょう。
  2. 行政にも提案しましょう。
  3. センスのいい表示方法を考えましょう。
  4. 平成の通り名ができてもいいかもしれません。
  5. 地域振興事業を熱心にやっている地域にも働きかけましょう。





今回初めて参加した高校生会員の感想

僕は、武生の町を歩きながらこの道はどこの通りだとか意識したことはほとんどありません。なので、今回参加させていただいた会合で通り名を聞いてもどこの場所のことを言っているのかいまいちよく分かりませんでした。それはたぶん通り名を知らなくても、特に不自由な思いをしなかったからだと思います。
よく看板などで「××号線を直進」などと書いてあるものを見かけます。普通に生活する上では××号線と呼ぶことでも十分なのですが、それではどこか固い感じがしませんか?
そのような呼び名よりも六軒町通りや馬場通りのように武生の人々(祖母もよく使っています)が考えた地域に密着した通り名の方がそれぞれの場所の雰囲気があっていいと思います。なのでこれから武生の人々の口から自然と通り名がでてくるようになればいいなと思いました。
北陸高校2年 内藤龍太
※以上の感想文は高校生の率直な感想ということで原文のまま掲載しました。BY webmaster




平成16年9月例会(武生の通り名復活をめざして)報告



平成16年9月17日 PM7:30より町屋倶楽部にて


今月の例会は「通り名復活プロジェクト」の最終例会でした。
武生市役所地域振興課の職員も参加して、今後ルネサンスとして取り組むべきことと、 市に対して、提案することなどを話し合いました。
参加者から出た意見


江戸、明治、大正、昭和と、語り継がれてきた「通り名」や「辻子名」は、武生の文化遺産であり、貴重な財産であり、また武生らしさを現す個性であることを、確認しました。
上は当日使用した地図の一部(簡略版)





「通り名」復活、継承についての提案書を市へ提出


私達武生ルネサンスは、平成16(2004)年10月1日、武生市に対し、「通り名」復活、継承についての提案書を提出しました。
提案書とともに、福井県立武生工業高校建築クラブの作成した通り名の入った地図提出しています。
その内容は以下の通りです。




「通り名」復活、継承についての提案書

幸運なことに、震災にも戦災にも遭わずにその歴史と文化を連綿と受け継いできた武生は、江戸時代に作られた地図を頼りに歩くことができるまちです。
昭和37年に施行された「住所表示に関する法律」によって、大きな通りで囲まれた区割りで町内が決まり、お向かいさんが違う町内になってしまいました。しかし武生に長く住むものの記憶には、昔から言い習わされた「通り名」「辻子名」などが今も生き生きと残っていて、「善光寺通りを通って、菊人形へ」「六軒町通りのお菓子や」「馬場通りから大門通りへ入る」などという会話が日常生活の中でまだまだ聞かれます。これは武生の立派な歴史的文化遺産ではないかと思います。
このたび武生工業高校建築クラブが苦心の末、武生の市街地全域について江戸、明治、昭和三時代の重ね地図を完成しました。それによりますと、江戸時代から今に至るまで続いている通りがいくつもあります。「・・・通り」は、両側に店屋が多くあったところだということを考えますと、武生は市街地全域にわたり、昔から「まち」としての営みがあったところだということもわかります。
私達武生ルネサンスでは、平成5年に会を結成してから、一貫して「武生らしさ」は何かを追求してきています。今年1月からは、武生の「通り、辻子」について調査をし、今も人口に膾炙している「通り名」「辻子名」等を、重ね地図の中に書き入れました。できればこれらを「武生の貴重な個性」として子供たちにも語り継いでいくために、われわれに何ができるかを考えています。このことは単なる感傷ではありません。市民が一体感を持ちながら街づくりを進めていく地域振興事業の起爆剤にもなるように思います。
通り名の復活、継承に向けた具体的な行動として、次の5つの提案をいたします。
  1. 提出する地図に掲げた「通り」「辻子」を、市が発行する地図など記載する。
  2. 武生の駅前、公会堂、市役所などに、通り名の入った地図を展示する。
  3. まずはモデル地区を選んで、通り名を表示する。
  4. 各団体へのアピールに心がける。(観光協会、タクシー会社、消防署など)
  5. まちづくり講座の中に「通り名講座」を持つ。
我が会では、今後各地区を回り、地域振興事業の中で、考えていただくよう働きかけたいと、考えております。

平成16年9月吉日


武生ルネサンス代表 上木 雅晴
武生ルネサンス通り名復活プロジェクトチームリーダー  山崎 芳裕



提出した通り名の入った地図(PDFファイル)
※この地図は福井県立武生工業高等学校建築クラブが作成しました。
印刷はご遠慮ください。WEB上でお楽しみください

PDFファイルをご覧になるには が必要です



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